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みつめよう私たちの国土城のある町豊臣大名の名城
盛岡城(岩手県)
不来方城(こずかたじょう)として知られる東北を代表する石垣の城。築城は天正19年(1591年)の豊臣秀吉による奥羽仕置(おううしおき)ののち10万石を安堵された南部信直により始められた。

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みつめよう私たちの国土
城のある町豊臣大名の名城
飫肥(おび)城(宮崎)
鎌倉時代より伊東氏歴代の居城だが、今の規模になるのは江戸初期、伊東祐兵(すけたけ)の代。大手門が復元され、堀の跡、大手虎口のます形石垣や土塀が残る。

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みつめよう私たちの国土城のある町豊臣大名の名城
徳島城(徳島県)
青石ともいう緑泥片岩によって組まれた石垣の城。青石を用いた三の丸庭園も見どころのひとつ。築城は豊臣大名蜂須賀家政が天正14年(1586年)から25年の歳月を費やし完成させた。天守は渭山(いさん)中腹にあがっていた。

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城のある町豊臣大名の名城
杵築(きつき)城(大分県)
小さな模擬天守のある勝山が城址。城は八坂川と高山川の河口にあり、三方を別府湾がめぐる。谷間を隔てて武家屋敷街が整然と残る。創築は室町時代木付氏により、今の規模は前田玄以(げんい)、早川長敏(ながとし)、小笠原忠知(ただとも)によった。

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城のある町豊臣大名の名城
鹿児島城(鹿児島県)
鶴丸城とも呼ばれ、慶長18年(1613年)島津家久が築城し島津氏歴代が明治に及ぶ。幕府に対する配慮から城山の麓に堀と石垣をめぐらせる構え。天守はなく大手虎口にあった大手門が本城であることを誇示するに過ぎなかった。城跡の一角には西郷隆盛が建てた私学校跡がある。

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会津若松城(福島県)
戦国時代芦名氏、伊達政宗がいたが、豊臣大名蒲生氏郷が入城して大改修。その後加藤嘉明により拡張整備され、今残る規模となった。加藤氏ののち保科正之が入城。正之の子孫会津松平氏が明治に及び戌辰戦争となった。

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城のある町豊臣大名の名城
甲府城跡(山梨県)
戦国大名武田氏滅亡後に徳川家康が平岩親吉に命じ甲府築城に着手。つづいて加藤光泰、浅野長政らが工事を続行、関ヶ原合戦前後にほぼ完成したとみられる。江戸時代の大半は江戸の西を守る要として城代支配が続いた。

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大和郡山城(奈良県)
創築は筒井順慶によったが、今に残る天守台をはじめとする石垣は羽柴秀長により築かれる。石垣中にはおびただしい石仏、石塔などが転用される。近世にはめまぐるしく城主がかわり、享保9年(1724年)柳沢氏が入城する。

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城のある町豊臣大名の名城
上田城(長野県)
二度にわたって徳川軍を跳ね退けた真田氏の本城。関ヶ原合戦で真田信之が城主となるが、元和8年(1622年)松代に転封。仙石氏、松平氏が相次ぎ城主となる。今日櫓三基と二の丸鐘楼が残り、本丸大手門が復元されている。

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城のある町豊臣大名の名城
小倉城(福岡県)
築城は細川忠興が慶長7年(1602年)より7年間を要し、関門海峡の押さえとして響灘(ひびきなだ)に面し行った。南蛮造天守という最上階が大きく突き出している天守が復興されている。

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城のある町豊臣大名の名城
山形城(山形県)
山形城を築いた最上義光は、南北朝以来出羽と陸奥の二国を総括する奥州探題斯波(しば)氏の嫡流である。最上氏57万石の府城だったが元和8年(1622年)に断絶。明治までめまぐるしく城主がかわった。

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城のある町豊臣大名の名城
金沢城(石川県)
120万石の前田家の本城。中世の尾山御坊という一向宗の拠点に築かれた。建築者前田利家時代の金沢城の姿は不明で、今見る海鼠壁(なまこかべ)で鉛瓦で葺かれる建築は、前田利家の子長利時代以降のもの。出城構えの兼六園が作られた。